富岡製糸場が建設された意味
幕府が江戸末期に開国した際の主たる輸出品目は生糸、蚕種、茶、米、水産物などせした。なかでも生糸と蚕種は一時期輸出品目全体の80%以上に及ぶほどに拡大し、今でいう外貨獲得の最重な要産業でも有りました。 しかし、輸出の拡大に見合う生産量が追いつかず、やがて品質の低下を招いていきます。粗悪品が横行し、国際的な評価も落としてしまいました。そこで明治政府は、信頼回復と貿易の振興を目指し、大規模な 器械製糸場の建設を計画をし、信頼の回復と粗製乱造の生糸を、国を挙げて優秀な生糸にするため殖産興業を育てる施策を実行に移します。 明治3年(1870)明治政府は国策として、官営の模範器械製糸場の建設を決定します。フランス人の生糸検査人、ポール・ブリュナの指導の下、建設地は養蚕業が盛んなこと、製糸に必要な資源調達が容易なこと、用地が確保できることなどの要件が満たされていることから富岡に決まりました。 これが今日、世界遺産として注目を集めている富岡製糸場の出発となります。 幕府が江戸末期に開国した際の主たる輸出品目は生糸、蚕種、茶、米、水産物など。なかでも生糸と蚕種は一時期輸出品目全体の80%以上に及ぶほどに拡大し、今でいう外貨獲得の最重要産業でもありました。外国商館での生糸検査
もっとも日本生糸は当初イタリア・フランス生糸に比べて品質が劣り,絹織物の横糸にしか用いられませんでした。 しかし明治政府は,輸出産物として最も重要な生糸の輸出検査のために生糸改所を江戸に設けたり、明治元年(1868)には、生糸の粗製乱造を規制するために,明治6年(1873)には各産地に生糸改会社(同業者組織)を設けました。 また明治29年(1896)年には生糸輸出の拡大に伴い,農商務省のもとに横浜,神戸に生糸検査所を設け,生糸の正量,品質検査を行っていました。外貨獲得と富国強兵
富国強兵とは「日本をこんな国にしましょう」的な今でいうスローガンですね。 その富国強兵をスローガンに掲げて行われたのが、殖産興業や、学制、兵制、税制だったりします。 富国は国を豊かにすることで資本主義経済を発展させて、外貨を獲得し明治政府の財政を豊かにすること。 強兵は軍備を拡充して、欧米諸国にも負けないくらいの軍事力を持とうとすること。 これら2つを合わせて富国強兵。 これは「日本を強くしよう」というスローガンで、近代国家を作りあげていくことを進めるために声高に叫んだわけです。 殖産興業は、明治政府が経営する工場を増やし、富国強兵を実現するための手段として進められたのが殖産興業です。富岡製糸場と殖産興業
明治初期において,先進資本主義諸国の外圧に対抗するため,近代産業技術を移植して資本主義的生産方法を保護育成しようとした政策。 初期には鉄道,電信,鉱山,造船などの官営事業の創設,紡績,製糸などの模範工場の建設, さらには牧畜,農林業などの官営諸施設の創設などを中心に行われたが,1875年以降は,私企業への各種補助金, 勧業資本金の交付などに重点を移していき,近代産業の形成を促進した。これら官営事業は,その後 80年の工場払下概則および 85年の工部省の廃止によって政商 (浅野,岩崎,三井,古河など) に廉価で払下げられ,財閥形成の原因 になりました。 富岡製糸場もこのような殖産興業の一環として明治政府が推し進めた事業と言えます。参考資料:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
『撮影協力 富岡市・富岡製糸場』