加賀前田百万石の支藩 七日市藩(前田藩)
1600年(慶長5)の関が原の戦いで、徳川家康が天下を取り、同年8月に征夷大将軍に任命されると同時に、江戸幕府を開きました。 徳川を頂点とした支配がほぼ出来上がりこれに伴い、諸大名は大幅な配置転換(国替え)が行われ、上野甘楽郡もその支配の再編成が行われました。 郡内の領地は所轄領の他に、小幡(現:甘楽郡甘楽町小幡)の織田氏、七日市藩(現:富岡市七日市)の前田家が支配することとなりました。七日市藩の成立
1616年(元和2)、前田利家の5男、利孝(トシタカ)は、前田利家の謀反なき証として、幼少時に江戸で人質として暮らしますが、大阪夏の陣の功績により、甘楽郡18ケ村(10,014石)を与えられ七日市に陣屋を築きます。 (3万石以下なので天守閣いわゆるお城は持てませんでした)以後 、七日市藩として、廃藩置県までの12代を存続させます。七日市藩初代藩主前田利孝が入封した1616年(元和2年)頃の記述を見ると、七日市は、加賀前田家の分家であること、分家の者が藩主をつとめる加賀藩の支藩であることが分かります。 これらの地は1601年(慶長6年)~1619年(元和2)迄は、水野忠清(徳川時代の前の小幡藩主)が支配していた地域と重なる部分が多かったようです。 上の写真は七日市藩跡の陣屋で、御殿と呼ばれています。この陣家は1843年(天保14年)に造られたものですが、その後何度も改築や移築、一部の取り壊しを経て、現在の姿になっています。 七日市藩陣屋跡(通称:御殿)現在は甲冑や古文書、土器、書等が保存されています。 明治6年の明治天皇の皇太后および皇后が富岡製糸場に行啓されました折は、この陣屋でお泊りになりました。 城壁のように見えますが櫓台跡です。(現在は御殿山と呼ばれています)七日市藩は、3万石以下なので天守閣(お城)は持てませんでした。七日市藩は二代目以降は大阪定番:駿河定番
藩祖利孝(としたか)は、前田利家の正室と江戸で人質(利孝の異母兄利長が家康暗殺の嫌疑をかけられたため)のような生活をしていましたが、大阪の冬・夏の陣で徳川方で出陣し 、軍功をあげたため 1616年(元和2年)上野甘楽郡に10,014石を与えられました。以後明治まで250余年の12代にわたり在封し、石高の変更はありませんでした。七日市藩前田家は代々、大阪定番と駿府定番を務めました。(大阪定番とは大阪城番とも言い、1~2万石の小大名が大阪城代の下で付く職。定員2名で大阪城の守備に就く。鉄砲、弓、具足奉行を支配した。) 戊辰の役(戊辰戦争)では会津藩の討伐に加わっています。2代以降②利意、③利廣、④利慶、⑤利英、⑥利理、⑦利尚、⑧利見、⑨利以、⑩利和、⑪利豁、⑫利昭1869年(慶応5年)版籍奉還で最後の藩主の利昭は藩知事となります。 利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行ないました。1871年(明治4年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となります。その後、七日市県を経て、群馬県に編入されました。 七日市藩は大火が2度あり、中門(黒門)は火災よけの願いを込めて造られてと伝わっていますが、現在は黒門(七日市藩)を通り赤門(加賀100万石の下屋敷)へ入ることを願って通う生徒もいます。大坂城代・定番・町奉行・加番一覧
大坂城代・定番・町奉行・加番一覧はここから七日市藩の位置
初代利孝の築いた七日市陣家は1869年(明治2年)の七日市村の絵図で示させている通り広い敷地を有し、陣家の中には藩主を始め重臣の屋敷も建てられています。 陣家総面積:約36,223坪で富岡製糸場の2倍強でしたが、現在は住宅になっていたりして、20%位が群馬県立富岡高等学校となっています。 南に鏑川、北には高田川、西は一峰山に囲まれ、東には幕府の直轄領で陣屋が置かれる予定(現:富岡製糸場)の富岡町が有りました。城下町としての七日市の街は、富岡から陣家に向かう街道に作られました。 富岡の街作りで行なわれた街道沿いの、短冊状の地割は七日市でも同様に行なわれました。 街の造成は富岡町が先行し、七日市藩の街割はそれに合わせているように見えますが、よく見ると両町の街道の境を少しずらせる形で区別させ、街の守りとして、富岡側には浄土宗の「龍光寺」、七日市には同派の「永心寺」を配置して、互いの境を強調しています。 富岡町の境から七日市にに入ると、城下町を警護する形で街道の要所に木戸が置かれました。 街道は陣家に突き当たると、陣家を迂回させる形をとっています。参考資料:富岡市発行:富岡のまち~まちのおこり400年~ 大阪府立中之島図書館:中之島図書館所蔵武鑑一覧 ウィキペディア