甘楽第一キリスト教会 第一代牧師 辻 密太郎牧師

甘楽第一キリスト教会 第一代牧師 辻 密太郎牧師


 

辻密太郎牧師の年譜 (1982年1月作成) 出典 日本キリスト教会加西伝道所内 辻密太郎顕彰会

現在顕彰会は活動を停止しているようなのでお問い合わせ等はお控えください。
在地 年齢 年/月/日 (和暦年) 事項
中富 0 1860/12/28( 延元) ・兵庫縣(播州)加⻄郡中富村(田安釘) 庄屋の⻑男として生まれる。
・本家(叔父)竹里は絶望系朱子学者で著名な学者と交道あり。
・中富村岩国先生、殿原村⻘⼭先生、富家村⼭田先生、上田村岸本先生に「よみかき」を学ぶ。
  15 1873(明治 6) ・昌明中学(小野)で洋式教育をうける?
姫路     ・姫路藩校好古堂元教授田島藍水に学ぶ。
・キリシタン禁制の高札撤去される。
    1874(明治7) ・医療伝道者ベリーに姫路病院にて聖書を学ぶ。
大坂 19 1878(明治11) ・大坂英学校に入学
  20 1978? ・沢⼭パウロより受洗、浪花教会(明治 10<1877>年設立) に入会。
    1880/7(明治13) ・明治 11<1878>年設立の日本基督伝道会社より泉州堺伝道に派遣される。
       
    1880 ・ 新島襄の自杖の教育。
・この年同志社英学校(明治八年設立)で学生ストライキあり。
京都 22 1881(明治14) 同志社英学校三年に編入学。
    1881/7 ・江州彦根(明治 12 年教会設立) 伝道に派遣される。
    1881/7 ・⻲岡(明治 16 年教会設立)新島襄、ゴルドン、宮川経輝と共に伝道講
  演をする。
  23 1882/7(明治15) ・江州彦根伝道に派遣される。
  24 1883/6(明治16) ・同志社英学校を卒業する。(五回生)
国内   1883/7 ・江州⻑浜(明治 18 年教会設立) 伝道に派遣される。
各地   1884(明治17) ・岡⼭県高梁教会(前任者松村介石)に派遣される。
  25 1884 ・同志社にリバイバル起る。
  26 1885/5(明治18) ・ 本教会に派遣される。(教会設立明治 17 年 7 月)第一号受洗德富静子
    (徳富蘇峰夫人)
・「辻密太郎氏の赴任により本教会の基礎が定まる。」
    1886(明治19) ・同志社女学校助教高松仙(丹波氷上郡鴨奥村高松■⻑女)と結婚する。
   (■はヨの下に米米、さらにその下に廾)  彝(つね)?
  27 1886/5 ・大阪の島の内教会(明治 15 年教会設立)に就任する。四代目牧師
  29 1889/(明治21) ・按手礼を受けて牧師となる。
  30 1889(明治22) ・鄉土伝道(中富村、北条町)を開始する。
   2年後には 20 余名の信者。
両親兄弟はじめ、児島尚善医家、池田、三枝、小林家等。国富重彦家も。
    1889 ・三重県津市伝道に派遣される。
  32 1891(明治24) ・群馬県北甘楽郡 甘楽第一キリスト教会(明治 17 年設立)に就任。
   薄給にもかかわらず。
    1892(明治25) ・夫人 仙(仙子)永眠。内村鑑三加⻄で講演。
  34 1893(明治26) ・上州高崎教会(明治 17 年設立)(内村鑑三の郷里)に就任。
    1894(明治27) ・日清戦争起る。・「 携带約全書註釈」出版。
  35 1895(明治28) ・大牟田教会に就任。
  38 1897(明治30) ・アメリカ、ボードミッション熊本本引き上げる。
    1897/10/3 ・辻牧師外4名の伝道士、教会を辞職する。
   日本人のハワイ移⺠急増する。
   ハワイでの排日運動も盛んになる。
  39 1898/5(明治31) ・辻牧師ハワイ伝道に赴く。
    1898/5 ・ハワイ、マウイ島、パイヤ耕地に伝道す。
  46 1905 ・ハワイ、カワイ島、リフェ耕地に伝道す。
  51 1910 ・ハワイ、オワフ島、ワイナイ伝道。
  53 1912(大正元年) ・北米移⺠が増加していく。
    1912 ・辻牧師北米伝道に赴く。 > ・カルフォルニア、ハンチグトン、
   ウインタースパーク、スメルダ耕地伝道。
  54 1913(大正2) ・フレスノ市組合独立教会で教会伝道。中加 3000 の在留邦人に対する
  教化。
  58 1917(大正6) ・南加モンテベロ耕地における 700 余の同胞伝道。
  61 1920(大正9) ・パサデナ市合同教会の牧会伝道。
  70 1925(大正14) ・北米⼭中部ユタ州オグデン市日本人合同教会での牧会伝道。会堂買収。
   中部ユタ、アイダホ、ワイオミング、ネバダ4州に散在する1万余の
   同胞に対する教化。
・南加パサデナ教会での牧会伝道。しん(仙夫人妹)夫人永眠。
・在米 37 年、伝道の道のり、優に一万里に及ぶ。
    1933 ・国際連盟脱退。
帰国 74 1933/11 ・眼の治療のため帰国。
  82 1941/12(昭和16) ・太平洋戦争おこる。
    1945/8/15(昭和20) ・敗戦。
  85 1945/12/20 ・老衰のため八十五才で永眠、中富町墓地に葬られる。
年譜の原本写真はここをクリック。写真は辻密太郎牧師の曾孫さん提供です。

 

辻密太郎牧師 略伝

〇氏は 1859 年、万延元年 11 月 17 日、退蔵を父に、愛(明楽寺今村氏) を⺟として加⻄郡中富村に生れた。父は中富村最後の庄屋にて、その徳をたたえる村人は、その墓地に丈余の碑を建立している。叔父竹里は頼山陽、大国陸正等、著名な学者と交遊を結び、その書画類は三階の館にあふるるばかりであったという文人である。 〇氏は幼少より学間をこのみ、中富村岩国先生、殿原町⻘山先生、富家村山⽥先生に学ぶも、小野に中学校が創立されるや、同校に学び、当時には珍らしい洋式教育を受けた。明治 4~5 年、 14~15 才頃より姫路の儒者⽥島籃水の 私塾に学ぶ。 その頃、私塾の近くにあった現姫路国立病院でベリー氏が聖書研究会を開いていた。ベリー氏は当時の兵庫県知事に親任され、県下の⻄洋医学普及に貢献された方で各地で医師の指導に当たられた。氏はこのベリー氏に聖書を学び、キリスト教に接触していくこととなる。 明治 11 年には大阪にでてアメリカ留学より帰国したばかりの沢山パウロに師事する。こうして明治 11 年、又は 12 年に同牧師より洗礼を受け、加⻄最初のプロテスタント信者となる。明治 14 年には更に京都に出て同志社に学ぶ。その頃の同志社には徳富蘇峰はじめ、少数ではあるが秀れた⻘年達が学んでいた。 氏は 島先生を尊敬、先生の墓の近くに自らの墓地を購入する程であった。⻑い鎖国がとかれ、除々に世界に向ってその扉が開かれようとする時代に生れた氏は、伝統の学問を学ぶことにとどまらず、いち早く世界の学問を学びとった郷土の先覚者である。 尚、弟孝次郎は、明治 22 年に同志社神学部を卒業、大丸ニュヨーク⽀店⻑となる。大丸が経営危機におちいった時、同氏が帰国再建をはかったと言う。 ○明治 13 年頃より、氏はキリスト教の伝道に熱心となり、堺、彦根、⻑浜、 本、大阪島の内、伊勢、群馬県甘楽、高崎、大牟⽥等広く全国に派遣されて活躍する。 明治 21 年 1 月 18 日、按手礼を受けて牧師となった氏(加⻄最初の牧師)は明治 22 年 4 月より明石教会の協力を得て郷土伝道を開始する。これがプロテスタント加⻄伝道の最初である。その伝道は困難を極めたが、 明治 20 年代の終わり頃には父退蔵、医師児島尚善一家、医師池⽥駒太郎一家をはじめとして、小林、柏原、三枝、山⽥、横⽥、堆岡、国富、安藤、蓬萊、小巻、 白井、内藤、松本、山本、片岡、三浪、鵜野氏等 20 数名の信者が生まれ、加⻄にもプロテスタント教会が誕生することとなる。氏が先進国の宗教を加⻄に弘めたことは決して小さな事ではないが、氏が外国の文化を同時に加⻄に普及させた功績は大きい。 ○明治 31 年、氏は渡⽶、日本人移⺠にアメリカの心を伝えることと、日本人 とアメリカ人との橋渡しのつとめを果たすことを志す。氏はハワイ・マウイ島パイヤ耕地を皮切りに、カワイ島リフエ耕地、オワフ島ワイナイ、カルフォルニャ州ハンチグトン、ウインタースパーク、スメルダ、フレスノ、モンテペロ、 パサデナ、更にユタ州、アイダホ州、ワイオミング州、ネバダ州の各地におもむく。 その踏破された道のりは優に 10,000 里をこすと言われる。氏はある土地では「配所の月を見る思いがした」と記されているが(同胞に理解されなかったのではなかろうか) その苦労がしのばれる。昭和 8 年、氏は 37 年のアメリカ生活を終えて帰国されたが在⽶中アメリカをおとずれた著名な人々が数多く氏を訪問されたようである。宝塚少女歌劇の創立者小林一三氏や、 世界的な宗教家賀川豊彦氏もその一人であるという。又早くよりアメリカに渡った人や、貿易を業とする加⻄人が少なくなかったことも氏とは無関係でないようである。氏の在⽶中の行積は、国家的なものであると言っても過言ではないが、加⻄にとってもアメリカへの道を開いた氏の功績は決して小さくない。
○氏は生涯伝統的な日本人の心をもちつづけた人であった。しかし心の扉を開いて先進諸国の心を受容していった。のみならず、同胞に向ってそのことを情熱的に説きすすめた人であった。 その行動は郷土や国内各地にとどまらず、アメリカにある日本人移⺠にまで及んだのである。しかし、その努力もむなしく日本人の心はかえって閉ざされていったのである。氏はそのいきつくところが日本の破滅であることを先見されていた。その予言は的中した。 不幸にも氏は 祖国の敗戦を目のあたり見て、昭和 20 年 12 月 21 日、86 才をもってその 生涯を終えられたのである。その業績は申すに及ばず、その名さえ誰にも知ら れずして。
上の写真はオグデンキリスト教会牧師(Bob Nakaoka)が2021年3⽉に辻密太郎牧師の曾孫さんにあてて送られた資料から頂きました。 下の写真は甘楽教会百年史から頂きました。
こちらの原本はここをクリックして見られます。 写真は辻密太郎牧師の曾孫さん提供です。

オグデンキリスト教会 歴史 (Ogden Christian Church)

ジェファーソン通り23番街での最初の集会の記録は、1903年2⽉6⽇の⽶国聖公会(the Protestant Episcopal Church)によるものであった。 その⽇以来、この場所は他のいくつかの宗教団体によって所有されてきた。現在の建物は、北⽶ドイツ福⾳教会(German Evangelical Synod of North America)の伝 道教会として建設され、その費⽤は全⽶の若者たちの寄付によって賄われた。美しいステンドグラスは、 第⼀次世界⼤戦前にドイツの裕福な家庭から寄贈されたものである。第⼀次世界⼤戦中のドイツ系アメリカ⼈に対する嫌悪のため、教会員は集会を中断し、牧師のB・H・リースマン師(the pastor, Rev. B. H. Leesman)*はシカゴに移住した。この後しばらくの期間、教会の建物は空き家となっていた。 *聖職者に対する敬称として⽤いる場合には,姓と名とをつけて,さらに the をつけるのがていねいな⽤法: the Reverend Martin Luther King (マーティンルーサーキング師); 略 the Rev.(Weblio 辞書>英和辞典) オグデン⽇本⼈キリスト教会の歴史は 、⽇本からアメリカへの⼊国を認められた100人近くの⽇本⼈男子生徒がいた、1990年代初頭にまで遡る。 Presbyterian Church)の建物を所有するに⾄った。 (原⽂: The history of Ogden Japanese Christian Church reaches back to the early days of 1900 when there were nearly one hundred Japanese school boys who had been admitted to the United States from Japan. 他の教会でも「男⼦学⽣」が多く参加していた様⼦が⾒られる。 ⼩林正資⽒の指導の下でクリスチャンの交わりが形成され、彼の働きの結果、教会が形成された。最初の数年間は、the Japanese Christian Fellowship のグループは第⼀⻑⽼教会の地下で集会を開いていた。その後、Kariya の店(グラント通り 24 番街)に移り、 さらに 24 番街の郵便局の反対側の 2 階の部屋に移転した。1925 年、 会衆はグラント通り 24 番街近くの古い第⼀⻑⽼派教会(the First 辻密太郎牧師の在任中に教会は勢⼒と⼈数を増し、1927 年に現在の建物を北⽶ドイツ福⾳教会から 7000 ドルで購⼊するまでになった。この教会は、1927 年 12 ⽉ 27 ⽇に正式に⽇本⼈合同教会(the Japanese Union Church)として法⼈化された。個⼈からの寄付 2000 ドルの他に、2500 ドルの助成⾦が合同教会教団(the United Church of Christ)と⻑⽼教会全国宣教委員会(the National Boars of Missions of the Presbyterian Church)から出された。この助成⾦返済のため、毎年恒例の教会バザーが始められた。バザーは 1991 年まで毎年開催された。補助⾦は 1931 年に全額返済され、抵当権も抹消され、その祝賀会が開催された。 将来に向けた教会の拡張と施設の改築は 1959 年に完了した。このプロジェクトでは、総費⽤ 40,000 ドルをかけて教会のスペースがほぼ 2 倍になった。(資料はここまで) 出典:同教会の「History」…2021 年 3 ⽉に Bob Nakaoka 牧師から送られた資料訳:辻 直浩(密太郎ひ孫)2024/3/26 (⾚⽂字は訳語要確認)
上記は原文のまま載せさせていただきました。
こちらの原本はここをクリックして見られます。写真は辻密太郎牧師の曾孫さん提供です。

 

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tuji/images/Tsuji_OgdenChristianChurch-History.pdf